ペースト状です

たぶん、そういうことです。

1週間もあけてしまった

つい油断をすると、サボってしまう。特に4連休。連休中は何もやる気が起きないね。あれはダメだ。おかげで水曜日からの仕事が地獄のようにつらかったんだから。連休中に何をしているのかって、APEXと読書のループですよ。最近は加藤典洋を読みながら、あぁよくわからんとなっています。『戦後的思考』と『人類が永遠に続くのではないとしたら』を読んでます。前者を読むのにめっちゃ時間を食いました。今『人類が~』の半分くらいです。2014年に発刊されたこの本はフクシマとチェルノブイリを取り上げていて、ちょうど最近届いたゲンロン11東浩紀チェルノブイリについて書いていました。ゲンロンも読めてません。ちなみに加藤典洋は図書館から借りているので、そろそろ返却期限です。山崎正和も借りてきたのですが、読めずに返却のようです。読書の時間、つくらんとなぁと思いながら、うっかり今日は3時に起きてだらだらしています。

愚痴に付き合うこと

「ちょっと愚痴を吐きたいのだが」と同僚に声をかけられる。最近、あんまりコミュニケーションをとっていなかった。久しぶりに話したと思ったら、愚痴りたいとはこれいかに。おやおや、これは大変なことになったぞ、と思いながら彼の後をついていく。2人きりになれるところにやってきた。彼の身の上話からはじまる。娘さんがどうだとか、奥さんがどうだ、とか。そこから華麗に職場にスライドをしてくる。おれは繊細だからいろんなことが気になってしまう。あの人の態度はどうなのだ、とかいろいろと彼女の失敗を把握しているが、それは内緒にしているのだ、とか。本人はここまで話さずに我慢をしてきたようだ。そうなのかと思って、ぼくも熱心に耳を傾ける(ふりは上手なのだ)。

うんうん、と聴いて一言二言感想を残す。あなたは繊細な方だ。そのことを大切にした方がいい。そして、いつでもぼくのことを利用してくれ、今日みたいな話ならいつでも歓迎しよう、と。

そんな歓迎しているわけではないのだが、よく考えたら、普段から自分の身近な人には隙さえあれば仕事をしたくないと愚痴愚痴いっているのだ。普段の細かくポイントをためて、ここにきて精算されると考えればまぁ、仕方のないことかと思う。

人の愚痴を聞くのは面倒ではあるのだが、仄暗い本音と性根を垣間見ることができるからわりと好きなのだ。

PCR検査、その重み

同僚が体調を崩して仕事を休んだ。そうか。疲れが出たんだなと思っていたが、どうやらPCR検査まっしぐらだったらしい。ぼくなんかはPCR検査ってどんなことやるのか割と興味関心であるし、陽性になったらそれはそれで仕方ないんじゃないかなという立場の人間だ。そのノリで、PCRのこと教えてね、とメッセージを送ったら、とても不安だという返事が来た。これは申し訳ないことをしたなと反省せざるを得なかった。職場で体調を崩す人がめっきり少なくなったから、コロナウイルスとの向き合い方が緩慢になってきていた。もし彼が陽性となれば、職場第一号として対応を追われることになるだろう。そんな不安を抱えて体調不良と向き合っているのだ。いや、体調不良を抱えて不安と向き合っているのだ。いずれにせよ、健康的ではない。偏見なんてくそくらえ、とも思いながら、偏見の瞬間風速は馬鹿にできないものがある。平気で思いっきり人を傷つけていく。とりあえず、どんな結果になろうともそういう瞬間風速に対して、一人で向き合わないように、みんなで支えられるように、気持ちの準備だけはしておこうと気を引き締めた。

自己顕示欲と向き合う

 

まずはじめに、ブログは自己顕示欲とは関係がない。

 

誰に気にすることもなく、自分の頭の汁をたらたらと垂れ流しているのが本ブログだ。無価値な内容だし、暇だったら読んでいただければ幸いだ、ぐらいだ。このブログに関しては問題ない。他、SNSとの付き合いかたよ、、、。Twitterもよい。匿名だし、あれもほとんど頭の中を垂れ流している。問題はFacebookだ。何にも面白くないのに、昔気になっていた子とかと友達になっていたり、昔関係を持った子がいたり、かと思えば、やたらえらい人と友達になっていたり。友達層が異常すぎる。

ということで、友達を精選したのが、1週間ほど前。

リアルで関係があるよなぁとかそういう人たちだけに絞ったけれども、100人くらいしか減らなかった。も少しがっしり削りたいけれども、なんだかいざとなったときに支障をきたしそうで。

 

友達を減らすと、投稿しやすくなる。でも、そこで何を言いたいのかというと特に言いたことはないのだ。ただ、今僕は元気ですよ、と言いたいのだと思う。どうしようもない自己顕示欲だけれども、それでうじうじ悩んでいるのも気持ちがわるい。今後は自己顕示欲と折り合いをつけていく人生なんだな。そういうものって20代くらいでおさらばしたかったのだと思うけれども。

これだから「、」てやつは

今年はコロナ禍の影響で、1学期が随分と後ろにずれこんでいる。8月の下旬に終えた夏休みが遥か昔のように感じるくらい濃密な日々を過ごしている。ぼくが住んでいる地域はどうやら、コロナウイルス感染状況が低いらしいので、わりかし色々な取り組みが活きている。例えば、宿泊行事。先日宿泊学習に行ってきたし、先週には修学旅行も終えている。夏休みが終わったら非常に慌ただしい。そんな心をなくしてしまうような日々を過ごしていても、まだ1学期だというから戦慄が走る。

 

学期が終わる時期になると、通信票を書くために、教員という仕事は忙しい(なんかもう、これまでぼかしていたけれども、面倒だから言ってしまう)。子どもの成長を書き、成績とともに保護者に渡すものだ。小学校だと○とかそんなのがついているあれだ。中学校になると、数字になるあれだ。色々と成果物などを集めたり、パフォーマンス評価を取ったりしながら、なるべく公正な評価をつけるべく努めている、はずだ。そういうあれこれとセットなのが、所見というやつだ。これが忙しい。いまでこそパソコンで入力が可能になったが、数年前は手書きというわけのわからない事態が横行していた。おおよそ一人当たり200文字を書くのだが、それを40人分、それを手書きにするという苦行だ。手書きという作業自体は無くなったが、パソコンではそういうことをしなければならない。通信票自体が作成の義務があるわけではないから、なくしてもいいのだ。多くの教員がそれってしんどいなぁと思いながらやっているだろう。面倒に感じているのはきっと僕だけではないはずだ。なくしてもいいと思うけれども、それすらなくなると、保護者に対して何をやっているのかという説明をしなくなるだろうから、まぁ防衛ラインなんだろうな。

 

そんなものをボチボチやっている時期なのだ。書いたものを学年の教員と読みあったりする。誤字脱字がないか、表現はおかしくないか、などなど。ぼく自身は「表現することはその人そのもの」だと思っているから、あまり直しを入れようと思わない。が、やたらこだわる人もいる。例えば、句読点の位置。勘弁してください、といいたくなるくらいに「、」の位置にこだわる人がいる。「、」に育てられた人なのかと心配になるほどだ。

 

極めてどうでもいいけれども、「、」ってやつは厄介なんだよ。

キルヒアイスから銀河英雄伝説

最近勤勉にだれのためにもならない話をつらつらと書いている。チラ裏ってやつだけれども、本当にチラシの裏に書くことなんて何もない。昨日、Twitter上のトレンドに「キルヒアイス」が入っていて、とうとう来たか、という感じで眺めていた。銀河英雄伝説の話だ。ノイエ版からファンになったぼくだが、1期終了とともに、その魅力に惹かれ10巻+外伝を読破してしまった。あの作品が今から40年ちかく前の作品であると言うことに愕然とする。そのくらい、色褪せない作品だし、ぼくにとっての民主主義を揺さぶってくる。ぼくのMacのメモ帳には『銀河英雄伝説』というフォルダーがあって、そこには登場人物の発言や、描写が保存されている。というかコツコツと打ち続けている。別にどこかに引用する目的もないのだけれども、シコシコと集めている。そういうことが好きなのだ。

 

”民主共和主義の対極に立つ思想は、救世主待望思想である。人民には、社会を改革し不正を矯し矛盾を解決する能力がないので、超絶した偉人の登場を待つ、という考えだ。自分たちはなにもしなくとも、いつか誰か、伝説の英雄があらわれて悪竜を退治してくれる、という他者依存の精神は、アーレ・ハイネセンがとなえた“自由・自主・自律・自尊”の精神と、けっして相容れぬものである。”

10 P176

 

こんな感じだ。最高だ。

 

なんとなくこの文章の引用をもってきたが、今の社会を眺めていると、どこにおいても上の引用のような思想がその影を潜めているように感じる。かくいうぼくもきっと誰かが何かをしてくれるのではないかと、期待してしまう時もある。しかし、ぼくらの市民主義において、誰かが何かを成すのではなく、ぼくらがせっせと地道な合意形成、もしくは相互了解のもとに、細々と足元から民主主義的なものを作り上げていかなければいけないのではないだろうか。そんなことを色々な場面で感じる。かなり抽象的な話になってしまった。

コメダ珈琲から貸し借りの話まで

これはコメダ珈琲に行った時の話だ。コメ牛が食べたくて行ったのだけれども、お店の前に着いたらドアに張り紙がはってある。「コメ牛は大反響で在庫切れですよ」というやつ。軽やかに帰ろうかとも考えたのだけれども、久しぶりのコメダ、と気持ちをリセットして入店した。店内はそこそこに混んでいるが、一人なら座れるようだった。ハンバーガーと蜂蜜アイスコーヒーを注文し、読書をする。最近読んでいるが、なかなか読み終わらない加藤典洋の『戦後的思考』を広げ、もぞもぞと読書を始める。合間にスマホゲームをぽちぽちやている間に(こんなことをしているから読み終わらないのだ)、ハンバーガーが届いた。舌がバカなので、だいたい何を食べても美味しい。今回のハンバーガーも問題なく美味しかった。舌がバカだから幸せなのだ。

 

食事を終え、いい加減に真剣に読書を始める。隣の席におばちゃんの2人組が座る。会話が耳に入ってきてしまうので、AirPodsを耳に押し込む。コンテンポラリーな、読書の邪魔にならない音楽を流す。しばらくすると、対角に座っているおばちゃんから声をかけられた。「お兄さん、これ食べて」。カレーカツサンドだ。おばちゃんは辛くて食べられないらしい。いっぱい食べれることは嬉しいことだし、舌がバカだから、きっと美味しいはず。そう思って、ありがたく頂戴をした。「ありがとうございます」そんなことを言って。予想通り、多少辛くはあるが、カレーカツサンドもおいしかった。ここまではよかった。ここから世界に緊張が訪れた。

 

即座に感想を言った方がいいのか…?

いただいたものだ。「辛いですね」と一言いうのが、人情ってものだろう。しかし、おばちゃんはまた新しい会話に入っている。そこで間に割って入るのも憚られる。何も言わずにAirPodsを耳に入れるのも、申し訳なく、とりあえず読書を始めた。何かを言わないといけない気がするが、そのタイミングが見つけられない。だれかから借りを作るということは、再びその人に何かを返さなければならない。どんなに陳腐なものであっても、ささやかな一言であっても。それが返されないことには、すべてが終わったことにならない。でもぼくは、すぐに何かを返すことができず、悶々としたまま読書をした。自分がコミュニケーションおばけだったら、、、と悔やんだが30を過ぎて、そんな大学生みたいな悩みを抱えるのもどうかなとも思う。

 

そんな気まずい状況も10分したら、変化が訪れる。おばちゃんたちがお金の勘定を始めた。ここで、さらにぼくに追い討ちをかけるような出来事が起こった。おばちゃんたちの会計で、小銭がちょっと足りないようなのだ。試されているような気がした。カレーカツサンドをもらったのだ。百数十円のおつりを渡したっていいんじゃないか?そんな思いが頭をよぎる。バッグに手を伸ばし、お財布を確認しようか、いやそんなのはきっと迷惑に違いない、そんなことを考えていたらおばちゃんたちは席をたっていた。帰り際は声をかけやすい。「ごちそうさまでした。ありがとうございます」やっと言葉を返せた。

 

誰かに何かを施してもらうということにここまで抵抗を抱える人間なのかと改めて思った。よく職場の人が帰宅途中のぼくをみつけて、車に乗せてくれようと声をかけてくれる。ぼくはいつもそれをなるべく断るようにしていた。なんか申し訳ないからだ。ただ、今日のことを受けて、言語化の糸口を見つけた気がする。ぼくは誰かに借りを作るのが苦手なんだ。車に乗せてもらうということは、乗せたメリットをぼくは提供しなければならない。そういう気がしてしまうのだ。だから、避ける。