ペースト状です

たぶん、そういうことです。

ヒトが「人間」という仮面をかぶって生きていく本『人間失格』

人間失格』は名作です。

初めて太宰治を。『人間失格』を読んだのは高校生の時でした。名作と言われている意味がわかりませんでした。高校生の僕はドキドキするような展開だったり、胸が締め付けられるような思いだったりを読書に求めていました。人間の心のあり方、自分自身のあり方を問う必要がなかったのでした。そのままの自分を認めるも否定するもなく、青春を生きるのに必死だったからです。

人間失格

人間失格

 

30歳になり、あらためて『人間失格』などの名著と言われている本をを読むとその「人間理解の深さや洞察に愕然とします。

 

 この本の主人公、葉蔵についてなんて書こうかと悩んだのですが、全くもって表す言葉を持っていませんでした。それもそうです。葉蔵が自らを「狂人」として「人間失格」と自覚するまでを一冊の本を通して描いているのですから、ここで僕が「こうだ」と短く言い切ることはできないのです。

ただただ、人間への洞察が優れているのです。葉蔵は妻をレイプされました。妻は葉蔵に謝りましたが、葉蔵はやり場のない思いを抱えました。妻がレイプされてしまったことで、妻の愛するべき特質である「純真さ」が汚されてしまったこと、その純真さに葉蔵が惹かれていたこと、レイプされた要因の一つに「純真さ」があること、というないまぜになった気持ちでいるのです。あまりに、ないまぜになるその気持ちを見事に文章化しているのです。物語に乗せているのです。

 

葉蔵は常に仮面をかぶって生きています。そして、その仮面のおかげであらゆることを上手にできてしまいます。そういう、人生がゲームのようになってしまったことで生きることへの違和感を持ちます。どこか冷めた目で人生を見つめているのです。そして、そういう側面は誰しもが持っているところではないのでしょうか。

人間失格』を読みながら平野啓一郎の『決壊』を思い出しました。 

決壊〈上〉 (新潮文庫)

決壊〈上〉 (新潮文庫)

 

『決壊』も大変面白い本です。主人公の崇が「弟の猟奇的な殺人事件」を通して自分自身と向き合わさせられていく、という本です。崇も葉蔵と同じように、人間関係というものをどこかドライに見ています。この本では著者平野啓一郎のいう「分人」という概念に当たります。

ペルソナということもできるでしょう。そういう類の仮面です

 

人はみんな仮面をかぶって生きています。人間というものを理解するために、そういうことに対して自覚的であったほうがいいと僕は思っています。名著が提供してくれる人間理解へのヒントはとても偉大です。でも僕は高校生の時には全く理解できませんでした。そういうものだと思います。だって、あのころは人間を理解しようとなんてしていなかったから。