ペースト状です

たぶん、そういうことです。

これだから「、」てやつは

今年はコロナ禍の影響で、1学期が随分と後ろにずれこんでいる。8月の下旬に終えた夏休みが遥か昔のように感じるくらい濃密な日々を過ごしている。ぼくが住んでいる地域はどうやら、コロナウイルス感染状況が低いらしいので、わりかし色々な取り組みが活きている。例えば、宿泊行事。先日宿泊学習に行ってきたし、先週には修学旅行も終えている。夏休みが終わったら非常に慌ただしい。そんな心をなくしてしまうような日々を過ごしていても、まだ1学期だというから戦慄が走る。

 

学期が終わる時期になると、通信票を書くために、教員という仕事は忙しい(なんかもう、これまでぼかしていたけれども、面倒だから言ってしまう)。子どもの成長を書き、成績とともに保護者に渡すものだ。小学校だと○とかそんなのがついているあれだ。中学校になると、数字になるあれだ。色々と成果物などを集めたり、パフォーマンス評価を取ったりしながら、なるべく公正な評価をつけるべく努めている、はずだ。そういうあれこれとセットなのが、所見というやつだ。これが忙しい。いまでこそパソコンで入力が可能になったが、数年前は手書きというわけのわからない事態が横行していた。おおよそ一人当たり200文字を書くのだが、それを40人分、それを手書きにするという苦行だ。手書きという作業自体は無くなったが、パソコンではそういうことをしなければならない。通信票自体が作成の義務があるわけではないから、なくしてもいいのだ。多くの教員がそれってしんどいなぁと思いながらやっているだろう。面倒に感じているのはきっと僕だけではないはずだ。なくしてもいいと思うけれども、それすらなくなると、保護者に対して何をやっているのかという説明をしなくなるだろうから、まぁ防衛ラインなんだろうな。

 

そんなものをボチボチやっている時期なのだ。書いたものを学年の教員と読みあったりする。誤字脱字がないか、表現はおかしくないか、などなど。ぼく自身は「表現することはその人そのもの」だと思っているから、あまり直しを入れようと思わない。が、やたらこだわる人もいる。例えば、句読点の位置。勘弁してください、といいたくなるくらいに「、」の位置にこだわる人がいる。「、」に育てられた人なのかと心配になるほどだ。

 

極めてどうでもいいけれども、「、」ってやつは厄介なんだよ。