ペースト状です

たぶん、そういうことです。

カフカの『審判』は案外この世界を上手にあらわしているのかもしれない。

ボソボソと少しずつカフカの『審判』を読んでいた。『変身』は何度か読んだことがある。『城』はそのいつまで立っても城にたどり着かないあの感じに心折れてしまったことが思い出される。高校生のころだった。

 

典型的古典だから、ネタバレもかまわないと判断して、結末に触れていく。主人公のヨーゼフ・Kはなんの罪かわからずに逮捕され、裁判の中に「気がついたら」主体的に参加をさせられている。そして、なんの罪で逮捕されたのか、どういう裁判の過程を経たのか、何も説明なしに死刑とされる。

作中では、Kにはいくつかの進むべき道筋が提示され、それをKは時には真に受け取り、時には主体的に判断をする。最初は馬鹿馬鹿しいと思っていた逮捕に、気がついたら真剣に臨んでいるのだ。Kは自分で主体的に無罪になるような働きかけを行う。しかし、それが同時に裁判への主体的な関与の現れとなってしまう。それが滑稽でかつ、読み手としては「あぁ、Kが巻き込まれていく…」と思わざるを得ない。

 

Kを後押しするのは、裁判制度のパーツとなったあらゆる人たちだ。彼らは、Kがどんな罪で起訴されたのか理解していない。さらには、現在裁判がどんな過程に至っているのか、どんな状態なのかを一切知らない。誰かに「命令」や「指示」をされただけなのだ。愚かな市民が描かれている。Kはそういう愚かな市民を軽蔑しながら、泥沼にはまっていくのだ。

 

カフカの『審判』から感じ、学ぶことは、世の中はあまりに不条理で冷たいということだ。フィクションだからね、といってしまうことは簡単だ。しかし実際問題、僕たちの社会にも事の全体像をつかもうとしない人間はある程度いるだろう。指示を出されて初めて動くことができる人間がいるだろう。カフカの描く社会は今の社会の延長線上にあるのではないか。Kはそんな社会で、足掻きながら、そんな社会の1つのパーツになっていった。そういうどうしようもないものに抗う力を僕は獲得しなければいけない。