ペースト状です

たぶん、そういうことです。

あいちトリエンナーレ 情の時代に触れて

愛知県に行く用事があったので、ついでに今話題になっている「あいちトリエンナーレ」に行ってきた。ほとんど事前情報はなしで、なんなら知っていることは、津田大介氏が大炎上を起こして、「表現の不自由展・その後」は公開を中止した、というタイミングだった。

 

愛知県内の4会場で行われていて、1日じゃあ回りきることができない。そのぐらいのボリュームだった。今回僕が見ることができたのは、愛知芸術文化センターの展示だった。午前中という時間の縛りもあり、今振り返っても「あっ、また見にいきたい」と思っている自分がいる。

 

「表現の不自由展・その後」が見れないトリエンナーレはどんなものだったのか簡単に感想を書く。

 

かなりよかった。

僕は現代アートという世界には全く興味がない人間だ。しかし、多くの作品をぼんやりと、ときには惹きつけられるように眺めていると、そこには「人間」の存在を感じた。

動物としての「ヒト・ニンゲン」ではなく、考える存在としての「人間」を。

例えば、A11田中功起氏の作品。抽象画と映像で、様々な背景をもつ家族的なものを作品として閉じ込めている。映像作品の中に、監督?の独白がある。吃音に関して。それゆえに理解をしてもらえなかったこと。両親にすら。そして理解してもらえない世界への挑戦を続けた先にある、一つの席に座れることの責任感。あの作品の中では、個人が晒されていく中で、家族という集合体から、また違う自分自身を削り出していく作業が行われているんだと思った。

そう、人間を削り出していく感じ。

方向は違うかもしれないけれども、「テラスハウス」も集合体の中から「私」を削り出していく作業だと思う。あれは、スタジオメンバーの意見が強く入ってしまうから、削りだされている部分が直に出てきづらい側面もあるけれども。やっぱり誰かと一緒に暮らしていくということは、そういうことなのかもしれない。

 

A14dividual inc.のラストワーズ。これはamazarashiの「エンディングテーマ」を彷彿とさせた。あなたに残された時間は10分間で、その10分間で大切な人にどんな文章をかくのか。展示室にはたくさんのスクリーンとタイピングされていく画面。真っ白な背景にタイプ音がカタカタと響く。そのスクリーンも文章を書いては戻りを繰り返す。伝えたいメッセージが入ったりきたりしている。そのゆれに、思いの揺れを感じることができる。これも「人間」を絞り出す感じがあったのだ。

 

以上2つの展示は、愛知芸術文化センターの会場で入ってすぐに見ることができる。冒頭30分でそんな風に心を鷲掴みにされてしまった。「表現の不自由展・その後」のような体制批判のような作品も少なくない。会場には右腕に日本国旗を巻いた男性がスタッフに真剣な表情で何やらを話していた。

A20ユェン・グァンミン氏の作品には、戦争が本当に今あなたの隣に迫っている、肉薄していることが表現されていた。A13ヘザー・デューイ=ハグボーグ氏はディストピアへの警鐘が。

 

きっと僕はまた期間中に愛知を訪れることになるだろう。別に現代アートには興味がなかったのだけれども、「情の時代」に僕がみたいことがあるようだ。