ペースト状です

たぶん、そういうことです。

今日とamazarashiと音楽と回顧録

今日が来るのを僕は待っていた。

今日は朝から空を雲がすっぽりと覆いかぶさり、ざぁざぁと強く雨が打ち付ける時もある。そんな日だった。雨だった。

今日は年に数回しか行かないCD屋さんに行く日だった。

 

高校生の頃は暇があったら地元のCD屋さんに足を運んでいた。洋楽がかっこいいという幻想に囚われて、洋楽コーナーの試聴機の前で曲の出だしのインスピレーションや、ジャケットを見比べながら洋楽あさりをしていた。当時はグッドシャーロットとか、サム41とかメロコアを聴いていたものだった。レンタル屋さんにもよくいった。5枚で1000円で安く洋楽アルバムを借りて、iTunesに落としていた。

1曲200円とかで買える時代になった。シングルCDは1000円していたので、随分安くなったと思っていたが、やっぱりアルバムという世界観は大切にしたかったので、アルバムで買っていた。中古のCDやレンタルCD、ときにはインターネット上に公開されているアルバムをダウンロードをしたこともある。もちろん、それはいけないと思っている。罪滅ぼしではないが、のちにちゃんとCDとして買っている。

 

いつからか、CD屋さんに行かなくなった。それでもレンタル屋さんにはたまに足を運び、少し音楽から離れてしまったなぁと思いながら、「あぁ、このアーティストはこんなアルバムをだしたのか」と言ってCDを借りていた。

 

Appleが、サブスクリプションをはじめた。流行に割と敏感だと自負しているぼくはすぐにその波にのった。

この時、僕はもうCD屋さんにいかなくなるな、と思った。事実、その後CDを買うことはなくなった。Apple Musicが僕の音楽聞きたい願望を十分に満たしてくれる存在になったのだった。適当に洋楽を聞いたり、適当に邦楽を聞いたりしていた。それなりに満足はしていた。

 

そんなときにamazarashiと出会った。たしか、『無題』から聞き始めた気がする。聞き始める1年ほど前に大学の友人がamazarashiっていいよね、と言っていたが、口をとがらせて、ふぅーん、と素っ気ない態度をとっていた。その頃の僕は、なんとなく自分のしらない日本のアーティストに素直に食いつくことができなかった。その瞬間だけは妙に生々しく僕の中に残っている。

amazarashiは瞬く間に僕の生活に浸食してきた。僕は社会人になって、そこそこうまくやっていたが、話すことは軽薄だった。軽薄な人間だった。そんな僕の生活にamazarashiが、秋田ひろむの詩が浸食してきたのだった。

僕は、自分自身の言葉に目を向けるようになった。突然、自分の言葉が重たくなったように感じられた。今もその重さを持て余している。でももう元には戻ることができない。この現実という重みをまとった言葉を僕はこれから飼いならしていかなければいけない。

今日はCD屋さんに行く日だった。

amazarashiの『ボイコット』をフライングゲットできる日。

 

でも、そういえば僕のmacはCDを読み取れない。

僕の家にはCDプレーヤーがない。