ペースト状です

たぶん、そういうことです。

温水器とエラー

今日風呂に入ろうとしたらお風呂を沸かすボタンをポチッと押しに行こうとしたら、我が家の温水器がエラーを起こしていた。こいつはたまにエラーを起こしやがる。それも大体、風の強い日とか雨の強い日とか、台風の日とか、そんなんだ。この家に住んでぼくも長い。対処法は心得ている。温水器のブレーカーを落としてやることだ。数分後にブレーカーを上げてあげる。そうすると、謎のエラーを乗り越えて温水器復活となる。

 

ぼくは今日疲れていた。汗もべっとりとかき、帰宅したらやりたいことの一位はお風呂に入ることだった。しかし温水器がエラーを起こしている状態では、色々と不都合がある。たぶん、お風呂ははいれるけれども、気になって気持ちよくお風呂に入ることができない。完璧な入浴体験を味わうことができない。

 

温水器のブレーカーを落とし、衣類を脱ぐ。裸になり、ブレーカーをあげる。エラーは見られない。風呂に突入だ。シャワーを浴び始める。温水器のモニターをみると、帯のようにメッセージが浮かぶ。「エラー41」。お湯を出しているはずのシャワーヘッドもどこかよそよそしい。実際問題、どこまでいってもぬるい。しかしぼくはもうシャワーを浴び始めている。濡れたままで浴室からでて、ブレーカーを落とそうか、違う解決方法を探そうか、思考をフル回転させる。

メガテンについてすごく悩むこと

10月29日は何の日かご存知か。そう。真・女神転生3のHDリマスターの発売日だ。30をすぎたのに、新しいゲームが発売されることにワクワクを禁じ得ない自分がいる。むしろここ最近のほうが、ゲームへのワクワクがすごい。真・女神転生に関して言えば、ぼくは4しかやっていない。しかもFINALはやっていない。つまりかじりにかじり。ただのかじりつきだ。しかしながら、そんなかじりつきのぼくですら、真・女神転生はすごいとわかっている。ただただすごいのだ。どのくらいすごいかというと、、、いややめておこう。適切な比喩ができるほど、豊かな感情と文章力があるわけではない。まぁとにかくすっごい楽しみなのだ。

 

悩ましいことがある。メガテン3をPS4で買うか、ニンテンドースイッチで買うか問題だ。基本的に、いくつかのハードで発売されたのならば、間違いなくPS4で買うことにしている。テレビの前にかじりついて、背筋をこわばらせ、ゲームと向き合う。そっちのほうがゲームしている感があるからだ。しかし、このメガテンにかかっては、2021年に、メガテン5が発売予定だ。スイッチで。思えば、メガテン4もDSだった。手垢がつくほど、やりこんだ。過去のゲーム体験からも、そして、未来の想定されるゲーム体験からも、もしかしたらスイッチで買うのがよいのではないか、という考えが頭をよぎる。メガテン3を買うことは、決まっている。しかしどちらのハードで買うかが問題だ。この問題はぼくを大いに悩ませるだろう。幸い、発売まで2ヶ月ちかくある。今月中にはいったんの決着をつけたいものだ。

マルチタスクとスタンディング

ここ数年で死ぬほど感じるようになったのだけれども、マルチタスクはやばい。その前はマルチタスクがなんなのかわかんなくて、仕事自体が全体的にやばかったのだけれども。マルチタスクという概念を獲得したから、マルチタスクはやばい。具体的にいうと、とにかくやばい。ぼくの仕事において火曜日はマルチタスクになっている。本来業務をしながら、もう一つのプロジェクトに関わり、接待もする。本来業務が疎かになる。いや、もうほとんど本来業務の形をなしていない状態になる。それで回っているんだからいいじゃないか、ともここまで書いて思った。もちろん、回っているのであればそれで構わないのだ。

ただ、ダメージがすごい。火曜日はぼくのHPをじわじわと削っていく。バリバリっとけずってくるような会心の一撃ではない。「どく」みたいな状態で、気づいたら「しに」にまっしぐらだ。

16時。ひと段落して周りを見回すと、みんなくるくる働いているんだけれども、自分のいるところだけぼんやりと薄い膜に包まれたみたいになってしまう。落ち着かなくて座っていられなくなる。だから、火曜日の16時以降はずぅっと立ちっぱなしだ。そういえば、昨年もあまりに追い詰められたときには椅子に座れなくなったことがあった。ずっと立ちながら仕事をしていた。スタンディングのオフィスになればいいのに、と思ったくらいだった。たぶん、ぼくはこれからも落ち着かなくなるたびに、ひとりだけ立ちながら仕事をしていくんだろうな。はやめに立ったままデスクワークができる状況を作った方がいいな。

仕事の話はしたくないな

とはいえ、仕事の話を狡猾に出汁に使わないと書くことがない。昨日のことだ。どうやら、ぼくの職場では不祥事を防止するための研修があった。年に一回は開かなければいけない年中行事みたいな年々、香ばしくなってきている研修だ。例年、不祥事のいくつかのケースが話し合われ、仕事をするためには余裕が必要ですよ、とかそんな感じの話がされる。

 

いつもならば、研修室の前の方に座り、神妙な面持ちで、ときに笑顔でときに神妙な顔で講義を受けるぼくだが、今回ばかりはさぼることにした。サボタージュというと、どうも誤解を受けてしまうかもしれない。戦略的に、心身を休ませる判断をした、という方がぴったりくる。朝、有給申請をだす。普段は滅多なことでは休まない、割と健康な労働戦士なので、有給申請を心配して管理職がわざわざ体調を心配しにきてくれた。ありがたいことだが、帰ってダラダラしますとも言えない。66点くらいの笑顔で、ちょっとあれなんで、と訳のわからないことをごにょごにょと言って誤魔化すことに成功をする。

 

無事に帰宅をしたぼくはパソコンの前に座り一心不乱にインターネッツの世界に没頭するのだった。妻が帰宅するまでの静謐な世界に耽溺する。安いインスタントコーヒーと、生協でかった袋詰めのちっこいドーナツを食べながら。終業の時間あたりに同僚から、ぼくの体調を心配するようなLINEがとどく。こうやって書いてみると、わりとぼくは職場に愛されているのかと感心する。ぼくはできるだけ早く職場から離れたいのだが。一生懸命研修を受けてきたであろう同僚に「インターネッツをしていました」といってがっかりしてもらうのも気が引けるので、「すこし休んでいました」と控えめな表現で応対をする。

聞くところによると、不祥事の研修は参加者にラリホーをかけつづけるような研修だったようだ。不祥事に関しては僕は持論をもっている。余裕をなくしたらときに不祥事が起きる。だから、余裕は前もって作っておくことだ。だらだらインターネッツをすることは、心に余裕をうむのだ。ひいては、これがりっぱなふしょうじぼうしなのだ。

170日間の小休止。

すっかりと放置してしまったこのブログ、久しぶりに復活をしてみようと思う。

 

きっかけなんて何もないが、気がついたら170日間も放置をしていた。ぼくの仕事は相変わらず続けているし、それなりに前を向こうとしながら生きている。ただ、ブログを書く、ということが170日前もそうだし、今もそうだけれども、難しい。

 

その難しさは、仕事をしているぼくと仕事をしていないぼくを切り分けてこのブログを書こうとしているからだ。このブログは、かぎりなく仕事をしていないぼくで書きたいのだ。しかし、仕事をしていないぼくには案外、なにも残っていないことに気づく。言いたいことなんて何もない。ただそこには、書きたい、みたいな思いはある。純度100%の仕事をしていないぼくでブログを書きたい。でもそのぼくはかぎりなく透明で、非常に薄い。だから書くことは、難しい。

 

そうこう考えを巡らせているうちに、また書けない自分になってしまいそうだから、この位でかけない理由を書くのは切り上げる。

今後の方向性としては、だらだら書いていこうと思う。

読んだ本のこと、思ったこと、仕事のこと、ムカついたこと。そんなことをダラダラ書いていこうと思う。

これはただの書く訓練なのだ。ただ指先を動かし、キーボードを打つ。一文字でも多く、書いていく。書くことでぼくがぼく自身をどこか遠くに運んでいくための訓練だ。

 

すべての物体は移動中だとかそういう趣旨のセリフがぼくの大好きな『海辺のカフカ 』(村上春樹)にあった。

移動は大切だ。今いる地点から、次の地点まで歩みをとりあえず進めなければならない。170日間も歩みを止めてしまった。また前に進んでみようと思う。

運動量を仕方なく稼ぐ。

コロナウイルスの影響で、運動不足になりがちです。ぼくの仕事も影響をもろに受けています。

 

Apple Watchをつけているので、運動量が測られているのですが、

コロナウイルス以前…1000kcal

コロナウイルス以後…500kcal

と50%カットになっています。これは本当に良くない。同じように過ごしていたら、太ってしまうということで、今月はぼくなりにかなり真剣に走っています。

朝起きたら、一度も座らずに走りに行く。

仕事から帰ったら、一度も座らずに走りに行く。

ポイントは一度も座らずですよね。

1日に2回はしると決めているから、1回の走る分は短くていいのです。今日は朝4km、夕方6km、合わせて10kmです。走ることで、なんとか1日のApple Watchがはかる運動が1200kcalに到達することができます。

今日とamazarashiと音楽と回顧録

今日が来るのを僕は待っていた。

今日は朝から空を雲がすっぽりと覆いかぶさり、ざぁざぁと強く雨が打ち付ける時もある。そんな日だった。雨だった。

今日は年に数回しか行かないCD屋さんに行く日だった。

 

高校生の頃は暇があったら地元のCD屋さんに足を運んでいた。洋楽がかっこいいという幻想に囚われて、洋楽コーナーの試聴機の前で曲の出だしのインスピレーションや、ジャケットを見比べながら洋楽あさりをしていた。当時はグッドシャーロットとか、サム41とかメロコアを聴いていたものだった。レンタル屋さんにもよくいった。5枚で1000円で安く洋楽アルバムを借りて、iTunesに落としていた。

1曲200円とかで買える時代になった。シングルCDは1000円していたので、随分安くなったと思っていたが、やっぱりアルバムという世界観は大切にしたかったので、アルバムで買っていた。中古のCDやレンタルCD、ときにはインターネット上に公開されているアルバムをダウンロードをしたこともある。もちろん、それはいけないと思っている。罪滅ぼしではないが、のちにちゃんとCDとして買っている。

 

いつからか、CD屋さんに行かなくなった。それでもレンタル屋さんにはたまに足を運び、少し音楽から離れてしまったなぁと思いながら、「あぁ、このアーティストはこんなアルバムをだしたのか」と言ってCDを借りていた。

 

Appleが、サブスクリプションをはじめた。流行に割と敏感だと自負しているぼくはすぐにその波にのった。

この時、僕はもうCD屋さんにいかなくなるな、と思った。事実、その後CDを買うことはなくなった。Apple Musicが僕の音楽聞きたい願望を十分に満たしてくれる存在になったのだった。適当に洋楽を聞いたり、適当に邦楽を聞いたりしていた。それなりに満足はしていた。

 

そんなときにamazarashiと出会った。たしか、『無題』から聞き始めた気がする。聞き始める1年ほど前に大学の友人がamazarashiっていいよね、と言っていたが、口をとがらせて、ふぅーん、と素っ気ない態度をとっていた。その頃の僕は、なんとなく自分のしらない日本のアーティストに素直に食いつくことができなかった。その瞬間だけは妙に生々しく僕の中に残っている。

amazarashiは瞬く間に僕の生活に浸食してきた。僕は社会人になって、そこそこうまくやっていたが、話すことは軽薄だった。軽薄な人間だった。そんな僕の生活にamazarashiが、秋田ひろむの詩が浸食してきたのだった。

僕は、自分自身の言葉に目を向けるようになった。突然、自分の言葉が重たくなったように感じられた。今もその重さを持て余している。でももう元には戻ることができない。この現実という重みをまとった言葉を僕はこれから飼いならしていかなければいけない。

今日はCD屋さんに行く日だった。

amazarashiの『ボイコット』をフライングゲットできる日。

 

でも、そういえば僕のmacはCDを読み取れない。

僕の家にはCDプレーヤーがない。